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外の世界を知ることが大切-他流試合の勧め‐

友からの 冬の一葉 懐かしき地

                ワシントンDCにいる友人から、ホワイトハウスの写真を送ってもらいました。雪の中に、ホワイトハウスを中心に、ワシントンモニュメントが見え、白い世界の中に国旗がくっきり映っているのが印象的です。 

 さて、本題です。

 会社に就職し、同じ会社に永くいると、どうしても発想が固定され、物事を判断するときに、新たな発想が生まれてこないことがあります。

このため、プロジェクトを進めているときや新たな事業を始めるときなど、課題に遭遇したりしたときにその解決策がなかなか思いつくことができず、どうしてもこれまでのやり方を踏襲してしまい、課題を解決できなかったりしてしまいます。

まさに「井の中の蛙大海を知らず」の状態に陥ってしまうことがあります。

ではどうすれば、このような固定された状況から脱皮することができるのでしょうか。

やはり、今安住している世界を一度離れ、違った環境に身を置き、これまでとは異な

った仕事をすることで、今までの考え方を見直す機会となるようです。

歴史家、磯田道史氏は、その著書「日本史を暴く」第3章内、『「コメの日本の圏外」が育んだ発想』のなかで、これまでの環境と異なった世界で生活することで発想力が高まった歴史上の人物の事例を示しています。

また、私も、専門である土木技術から全く離れた世界で仕事をする機会に恵まれ、その中で、今までとは異なった考え方をすることの大切さを知ることができました。また、これまで培ったもののなかに、すぐれた要素があることを改めて発見した経験があります。

今回は、磯田氏の著述と私の経験から「外の世界を知ることの大切さ」について、事例を紹介します。

違った環境での鍛錬が、新たな発想の源に

磯田道史氏の著書、「日本を暴く」は、学校で学ぶ表の歴史には書かれていない意外な事実を、戦国時代から明治にかけての古文書の分析を通して、「歴史の裏側」を明らかにする内容を記載したものです。

ここで紹介する事例は、「第3章 幕末維新の光と闇」のなかの“「コメ日本の圏外」が育んだ発想”の項に書かれている内容です。

日本といえば米社会といわれ、その世界でしか生きることを知らない時代に、米以外の 牧畜などの比重が高い地域が、南は奄美大島や、北は下北半島にあったこと、そして、やむを得ず、そこで生活し、鍛えられた源義経や西郷隆盛がどのような発想を持つようになったかについて記述しています。

 西郷が流された当時、島民(奄美大島)は米作りを制限され、サトウキビを増産させられていた。奄美群島はコメ日本の圏外であった。「日本はコメの国。どこでも稲作をしていた」というのは幻想にすぎない。西郷は日本を客観的に見られるコメ圏外の時間を持っていた。このことが西郷の革命思想誕生に大きな意味をもっていた。

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 実は、日本本土にもコメでない「牧畜社会」があったのを思い出した。青森県の下北半島である。

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 漁も盛んで、鮭・鱈・鰹などの漁獲の二割以下を年貢代わりに殿様におさめていたらしい。貝や昆布・ふのり・てん草などの海藻も貢ぎ物の対象であった。江戸時代になっても、ここでは砂金がとれた。「沼役金」という砂金税を領主におさめている。

狩猟・漁労と採集が組み合わされ、著しく農耕の比重が低い、もうひとつの日本の姿が、かっての下北半島にはあった。狼と戦いながら馬を育て、良馬や鷹がとれれば、領主に差し出す暮らしが、そこにはあった。日本列島の南北には、コメによらない土地がある。西郷隆盛も源義経もそこで鍛えられた発想と軍事力でもって都に押し出してゆき、ともに日本全土の歴史を変えている。

(磯田 道史著 日本史を暴く 「コメの日本の圏外」が育んだ発想)

 

他流試合の勧め

 私が、ワシントン事務所の所長を務めていたときに、東京の本社から毎年、実務研修ということで技術屋が米国に長期に出張してきました。

米国の電力会社に滞在し、技術交換を介して当地の技術、設備の保守管理の在り方などを学ぶことが主な目的でした。

ひと月近くの研修後、私が勤務するワシントン事務所に来てもらい、研修の成果、感想を聞かせてもらうことにしていました。

その中で、技術者2名が、ニューヨークを主な電力供給域とする電力会社に研修に行った時の感想が印象に残っています。

彼らの感想をそのまま紹介します。

“技術的な部分のみならず、会社の基本的な思想・姿勢を比較することはお互い大変刺激になり、気づきになりました。”

“いろいろなやり方があると実感した上で、設備設計や機器仕様はユーザーとしての過去の経験の蓄積から来ているという点は同じ、経験の違いが表面に出る具体的違いとなっている。どちらが優れているとか、効果的とかではなく、現実的に違うやり方で成り立っているというのは、自分の中の「当たり前感」に歯止めをかける、もしくは真の理解に役に立つ“

この他にもいくつか感想を話してくれましたが、彼らは、アメリカに行き、技術的な点に関心を持つばかりでなく、自社で仕事をしてきた文化、その会社の風土と異なったものを感じ、自分の会社を改めて意識したこと、また自分のこれまで感じてきた、あまりはっきりしなかったことを再認識出来たということです。

自分の現状の技術力を改めて評価する良い機会となったばかりでなく、異文化の社会を経験することにより、自分の位置づけ、自らの会社の良い点、検討するべき点が分かってきたということだと思います

このようなことに気づくためには、やはり、今までとは違った生活空間で、また、考え方、文化の異なったところに飛び込んでいくことで、今までと違った考えを持つことができるようになり、それが、次の課題解決の際に有効なものとなると思っています。 

転出した会社で知った元の会社の技術的価値

2009年に、私が入社以来30年ほど勤めた会社を58歳で退職し、まったく異なった事業を展開するガス会社に就職したときの経験で、今まで勤めていた会社の持つ技術に改めて気付かされたときの事例です。

そのガス会社は、天然ガスを生産し、地域の企業にそのガスを卸すことを事業の柱としていました。私は、ガスの生産設備を所有する事業所の所長を務めており、安全に、しかも絶えることなくガスを生産し、顧客に届けることが使命でした。

その事業所では、生産設備と顧客との中継設備などがその地域に点在し、さらに、それら設備と顧客を結ぶパイプラインが地域全体に張り巡らされていました。

創業以来数十年が経過し、設備の古いものもあり、いくつかの技術的な課題がありました。

その中でも一番に大きな課題が、首都圏を襲う地震の発生が危惧される中での、設備の

耐震性を評価することでした。

設備の耐震性評価をどのようなコンサルタントに頼んだらよいか、会社内で議論している中で、その仕事をお願いしたのが、今まで在籍した会社の子会社で後に私が社長を務めた土木建築関係のコンサルタント会社でした。

2010年の秋に耐震性評価の報告書が上がってくると、早速に、どこが危ない箇所であるか関係所員を集めて検討を始めました。

2011年3月11日の東北大震災が東北から関東地域を襲ったのはまさにその検討をスタートさせた直後でした。

ガスの生産設備やパイプラインにも被害を生じましたが、その被害箇所は、まさに耐震検討をお願いしたコンサルタント会社が指摘した箇所でした。

その実績に、当時の社長も、「これほどまでに精度良く評価できるとは知らなかった」と話していましたが、私自身も、その会社の技術力がそれほどにまで卓越したものであったかを改めて認識した次第です。

これも、ほかの会社に移ったからこそ、外の世界から見る景色の違いを改めて感じさせられた経験でした。

その後、耐震性評価をお願いしたコンサルタント会社の社長になるという奇遇に恵まれましたが、ガス会社での実務経験が、コンサル業を進めるうえで大いに役立ちました。

まとめ

同じ会社にいると、その会社のやり方やこれまでの技術の蓄積もあり、ある課題に直面したときに、これまでの知識、技術がかえって、発想の妨げになることがあります。

前従しましたが、「まさに井の中の蛙大海を知らず」の状況の陥ってしまっているのが原因であることが多いかと思います。

このようなときの打開策として、外から今いる自分の環境を見直すことが必要であると思います。

積極的に、今の世界から飛び出す勇気を持ち、飛び出したなら、しゃにむにその世界のことを吸収していく努力、まさに他流試合に挑むことをお勧めします。