今の状況に不安があるとき

危機管理能力の高い人の特徴、臆病者-会社生活43年からの教訓-

戦後最大の危機といわれる新型コロナ禍にともなう外出自粛による消費の低迷などで、経済の落ち込みがひどくなっています。

今まで経験のないリスクに多くの人たちや企業がさらされ、困難に直面している人が多い状況となっています。

この新型コロナウイルスによるパンデミックの発生については、数年前から米国のある大学で警鐘がなされていたとの報道もあったようです。しかし、そのことはどこの国でも重要視されることなく、今の状況に至っています。

このように、今回の事態も含め、リスクがあることが分かっている中で、想定されるリスクにどのように対応すべきか、リスク管理のあり方が、今まさに問われていると思っています。

では、このリスクをマネージメントするうえでは、どのような人が適しているのでしょうか。

司馬遼太郎は、その作品の中で、こまごまとしたことを心配する素養がある臆病者こそが、リスクへの対応に適していると書いています。

私は、若い時に建設現場で土木構造物の建設に従事していました。

担当した構造物に対し、自信過剰で事を進めた結果、起こり得るリスクを過小評価し、その後、問題に遭遇した経験があります。

そのため、それ以降、臆病と言われてもよいという覚悟でリスクを徹底的に洗い出し、構造物の設計にあたるようになりました。

今回は、司馬遼太郎氏の作品と私の建設現場での経験から「臆病者が、危機に際して管理能力を発揮する事実」について紹介します。

臆病者はこまごまと注意を払うことで危機を乗り切る

小説「花神(中巻)」の舞台は、明治維新直前、第一次長州征伐に敗北を喫し疲弊する中、それでも討幕への強い意志を持つ長州藩です。

長州藩では、第2次長州征伐に備え、軍事力の強化を急いでいます。その指導にあたったのが、大村益次郎に名を変えた村田蔵六です。

長州藩では、第2次長州征伐に備え、軍隊の士官の養成が急務ということで、士官養成所を設立し、そこに西洋の軍事論を習得した蔵六を教授として招聘しました。

ここで紹介する一節は、蔵六がその養成所に初めて出向くときの話です。

夜間に一人で出歩くことを嫌う蔵六は、まだ暗いうちに山の中を通り養成所に行くため、その心配性から宿の主人に同行を頼みました。

すると、その臆病さを宿の主人に指摘されましたが、西郷隆盛が語った言葉を引用し、軍略を練るうえでいかに臆病であることが重要かを説くのでした。

(村田さまは、夜道がこわいのではないか)

と、宿の亭主はふと思った。

そのとおりだった。蔵六は夜道がきらいなうえに、鴻ノ峯のふもとに、五、六ぴき野良犬が棲んでいるのがこまる。おおぜいで押し通ってゆけば犬もおそれてやって来ないだろう。

「軍略は、臆病から出るのだ」

といったのは、蔵六がいずれ接触するであろう薩摩の西郷隆盛であった。薩摩藩の軍略家で伊地知正治という人物が、京都のある料亭で同藩の者たちと飲んでいたとき、室外で騒ぐ者があった。

伊地知はその物音をきいて刺客が襲ってきたとカンちがいし、血相を変えて庭へとびだし、石燈籠のかげにかくれた。その臆病ぶりを一座の連中があざ笑ったが、同座していた西郷がそれをおさえ、

「だからこそ伊地知先生はえらい」

といったというのである。勇者はおのれの勇を恃んで敵を呑むために智がくらむが、これとは反対に臆病者は、おのれが臆病なるがゆえにこまごまと注意をはらい、敵の動きや心理を洞察し、敵からのふせぎ手を必死に考える。

だから伊地知先生はわが薩摩藩の軍師なのだと西郷はいったというのである。

(司馬遼太郎著 花神(中巻))

慢心がトラブルを招く

若いころに、ダム建設の現場である工事を担当していました。日本でも比較的珍しい工法を用いた工事だったので、よく人が調査に訪れ、いろいろ質問を受けました。

私はその当時は、もうこの工事、工法のことなら何でも知っていると思っていましたので、来る人、来る人、その質問にはさらさら答えていました。

そのような時、ある人が「こんなにうまくいくことがあるのだろうか。何か忘れてしまっていることはないのか」というようなことを話しているのが気になりました。

しかし、出来上がっていく構造物を見るにつけ、そのようなことはすっかり忘れてしまいました。

もっとリスクを考える必要があるのでは」と、注意を喚起してもらったものと思いますが、その時はなにも気が付きませんでした。こんなことも慢心のなせる業だと思います。

工事が完成し、フルの荷重がその構造物にかかるようになったときに、いろいろ予想もしていなかったことが起こり、トラブルが発生しました。

そして、そのトラブルが、まさに、「よく注意をするように」と言ってくれた人が指摘してくれた所で起こったのでした。

工事を視察に来た人たちに、あんなふうに流暢に来訪者に対して説明していたことを、本当に恥ずかしく思った瞬間でした。

人に説明する以前に、もっと現場を見て、考えられるリスクを徹底的に洗い出し、さらに、人の指摘は素直に聞き、得るものがあれば直ちに従う。

それでも心配な点があれば事後の備えをする。こういった大切さを幾つかの経験から教えてもらいました。

臆病になってリスクを出し切ることで危機を乗り切る

慢心からリスクを過小評価し、トラブルを起こしてしまった経験は、その後の構造物の設計をする上で、自分自身に大きな変化をもたらしました。

構造物を設計するときに、どのような条件で壊れるのか、一般的な知識に頼るのではなく、徹底的に考えるようになりました。

人から慎重すぎると言われても、かまうことなく、それでも自然は何か欠陥を突いてくるといった臆病な気持ちで、設計に取り組みました。

先輩が、「自然に対して謙虚になる」という言葉を、トラブルが起きたときに私に語ってくれましたが、まさに、自然に対し臆病になれと言われたものと思っています。

その後50代になり、会社の経営に携わることになりましたが、自らも何か大事な方針を決断するときは、本当にこれでリスクを総ざらいしたかを徹底的に考えました。

また、一緒にそのことを進めるトップには、必ず、少し臆病ぐらいに物事を考え、いざことを始めたら誠心誠意そのことの達成に尽力する人を選びました

その効果もあり、いざことが進み始めると、何か問題が起こっても素早く対応が可能となり、当初考えた成果を上げることができました。

まとめ

物事を前に進めようとしたとき、その先に生じるリスクをどれだけ考えて、対応策を検討しておくことが出来るかが、そのことを達成するうえでは大切です。

そのリスクを考えるときに、自信過剰であったりすると、先を甘く見てしまい、本当に重要なリスクを見落とすことがあります。

そういった意味で、リスクを管理するうえでは、司馬氏が言う、こまごまとしたことを考えられる臆病者が適しているのではと思います。

ただし、臆病が過ぎて、ものごとをあきらめることとは話がちがうと思います。あくまで、何かを成し遂げる気概を持ち、そこで、臆病者となって、いろいろ考えることが必要と思います。