上司、リーダーの役割

意思疎通の無さが招く悲劇

立春の残照 満月朧げ

立秋の日はよく晴れました。日が沈み東の空には残照の中、おぼろげな満月が顔を出していました。 

 さて、本題です。

 事業を進めているときに遭遇する不都合を今回は取り上げます。

新商品の販売であったり、新たに事業を展開しようとする際、その進め方の方針を決める本部と実際に顧客なり相手先に対応する現場間で、意思疎通がうまくいかなかったり、現場の生の情報が本部に届かなかったりしたときに、不都合が生じることが多々あります。

本部は最初に決めた方針に固執しすぎることが原因で、現場から上がる生の声を生かすことができず、折角の販売の機会や事業の推進の機会を失うことが実態であると思います。

柳田邦男氏はその作品「零戦燃ゆ ③」の中で、太平洋戦争中期の中部ソロモンでの戦いを取り上げ、現場と司令部の離反がこの戦いでの敗戦を招いた事例を紹介しています。

私も、ある会社の社長に就任したときに、経営改革を進め、一時は順調に改革が進んでいたものの、現場で実際に仕事をする社員の意識に思いが至らず、2年ほどしてその改革が 停滞する事態に陥った経験があります。

今回は、柳田氏の作品と私の経験から「本部と現場の意思疎通の無さが不幸を招く」について、事例を紹介します。

現場の実態を知らない本部

 今回も、前回と同じく、柳田邦男氏の「零戦燃ゆ」からの引用です。

「零戦燃ゆ」は太平洋戦争開戦時の華々しい活躍から、その後、米国にその機体の特徴を調べ上げられ、弱点を突かれるようになりました。しかも、優秀な飛行士がどんどん戦死する中、人材も枯渇し、ゼロ戦の戦闘能力が著しく低下していくまでを描いたノンフィクションです。

その中では、開発担当者、飛行士、指揮官、上層部などさまざまな関係者の姿を描いています。

ここで紹介する場面は、太平洋戦争も2年目を迎え、米軍の攻勢が顕著になったソロモン航空戦から、日本軍が、じりじりソロモン中部からの撤退に追い込まれていたときの話です。

米軍は、日本軍の主要な基地であるラバウルへの攻撃が視野に入り始め、中部ソロモンの各島への攻撃を活発化させていきます。

日本軍は、米軍陸部隊がソロモン諸島に上陸し、航空基地をつくることを阻止するため、ラバウルから敵艦戦を攻撃する陸攻隊とそれを援護するゼロ戦隊が出撃しますが、米軍艦隊と航空隊との熾烈な戦いを余儀なくされます。

ここでの一節は、結果的に大損害を受けたさいの状況を、戦いで生き残った飛行隊員が記述した記録です。

 原因は、いくつかあるかと思いますが、作戦を立てる参謀本部が、現場の戦闘状況を把握することなく、作戦を立て、現場と離反していったことが大きな要因でした。

 陸攻隊と直掩零戦隊が、ニューブリテン島を越えて、ダンピール海峡にさしかかると、眼下には、断雲がニューギニア方面まで広がっていた。だが、その断雲の隙間から、間もなく、敵艦船群を発見した。

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陸攻隊の痛手は、やはり甚大だった。指揮官谷田中尉機をはじめ、水越是飛曹長機、内馬場繁之一飛曹機、倉本二生一飛曹機、江口繁徳一飛曹機、吉成定男二飛曹機の計六機が、ニューギニア沖の海峡に散ったのだ。その戦死搭乗員は、三十三名に上った。

陸攻隊の飛散について、当時七〇五空飛行隊長だった巖谷二三男大尉は、戦後に著した『中攻―その技術発達と壮烈な戦歴』の中で、実戦を経験している指揮官と作戦指導部の間で、判断のずれがあったことを歯に衣着せずに次のように指摘している。

「その当時の実施部隊指令以下は攻撃の度に消耗を重ねる戦闘に士気をうち砕かれていたのではない。飛行機隊の大被害に比べて戦果が僅少であることを憂えたのである。

そして、戦闘の実情は自ら戦場に挺身するものが最もよくこれを把握し、誇張のない事実を伝えようと努めた。少なくともソロモン海戦以来、艦隊又は戦隊の航空主務参謀が戦場の実体を知る目的で攻撃機隊とともに雷爆撃戦を視察体験した例を知らない。

勿論、自ら放火の間に戦闘を指揮することは、これら司令部職員の任務ではない。しかし、いやしくも長官、司令官を援けて戦闘を指導する任務を持つ参謀連がすぐれた作戦を案出計画するためには、敵を知り己を知ることがその根本要素をなすものであるから、戦が困難になればなるほど一層正確にその真相を洞察していなければ一日と雖もその職に堪えられるものではない。

—–(中略)戦が苛烈になるにしたがって、司令部と実戦部隊との離反の傾向が見えてきたことは悲しい現実として回顧反省されることである

あたら多くの部下を南海に失った飛行隊長として、無念の気持ちは消えることはなかったのであろう。

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司令部と実戦部隊との離反の傾向」という指摘は、日本の陸海軍に共通の欠陥というべきで、その傾向は戦局が厳しくなるにつれて顕著になっていく

(柳田 邦男著 零戦燃ゆ ③)

 

現場の社員の意識の変化を把握できず改革が停滞

 私が、設計コンサルタント会社の社長に就任したときは、会社の受注が落ち込み始めていたときでした。

なんとか受注を回復し、売上高を伸ばし、営業利益を高めようと、就任直後から10年後の売上、利益目標を定め、経営の改革に手を付けました。

組織の在り方、営業のやり方、技術商品の開発の仕方をはじめ、手を付け始めました。また、社員に目標達成のためにどのように取り組むべきか、意識の変革を強く迫りました。

1年ほど経つと、会社の成長のためには、自ら意識を変えていかなければならないと、考える社員が増え始めました。

ほかの方策も軌道に乗り始め、2年ほどすると、10年後の目標の達成が、社員にも見通せるようになってきました。

経営も安定しつつあり、このまま今までの方策を進めていけばよいと判断し、継続的な経営を進めていましたが、しばらくすると、売り上げが停滞する傾向が見え始めました。

このままでは、また元に戻ってしまうことを懸念し、対策を講じることとしました。

まず取り組んだのが、社員の意識がどう変わったか、会社への満足度はいかなるものか、ということでした。

アンケート調査や懇談会を通じて社員の意識を調べると、新たな課題が生じていることがはっきりしました。

処遇面での満足度は高いものの、仕事に対するわくわく感であったり、達成感であったり、仕事への取り組みに関する不満を感じている社員が多くいることがわかりました。

結局、これまでの仕事のやり方が、上意下達的で、どうしても受動的な仕事であったことが根本的な原因ということが明確となり、方策として“自ら考え、判断し、行動する”ことをかかげ、これに沿った方策を立ち上げました。

これらの方策により、社員の意識も徐々に変化し、社員の満足度も向上していきました。

2年ほど経営改革を進め順調に進んでいるから安心と思い、現場で働く社員の意識を置き去りにしたことで、一時的な停滞を招いたものと反省しました。

この反省をもとに、その後は、アンケートや社長との個別懇談会などを通じて、社員の意識を把握することに時間を費やすことにしました。

まとめ

組織が、ある戦略を立て、事業を進めようとするとき、とくに成果が上がっているときには、原動力となっている現場の状況や、そこで働く人たちの意識を忘れがちになってしまいます。

そのために、現場と離反し、現場の状況に即した方策がとられず、結局、事態が悪化していくことがよくあります。

常に、現場の状況を把握する努力が作戦を立てる部門には必要であると思います。