今の仕事に疑問がある時

運がいいと思うことで上手くゆく-会社生活43年からの教訓-

会社生活を送っていると、よい転勤に出会ったり、興味ある仕事を順調に続けることができたり、「俺って運が良いのかな」と思うことがあると思います。

一方で、「なんでこんな職場に転勤になってしまったのか」とか、「トラブルばかり続いていて、やる気がなくなってしまう」といった理由で、「なんて自分は不幸なんだろう」と、思う人もいるはずです。

運、不運はその人について廻っているものなのでしょうか。

終戦後に苦しい思いをした女性が、「自分は運がよい」と思うことで、人生を切り開いていった話を、作家宮本輝はその作品の中で書いています。

私も、若い時にいくつかのトラブルに遭遇し、不運を背負っているかなと思った時期もありましたが、四十歳を超えたころからは、いろいろ職場を経験する中で、むしろ自分は運がいいのではと思うようになり、仕事も楽しくなりました。

また、司馬遼太郎氏は、その作品「坂の上の雲」の中で、「運を気合でつかむ」について書いています。

今回は、宮本輝氏、司馬遼太郎氏の作品と私の会社経験から「運をつかむこと、そして運がいいと思うことで仕事が上手くゆく」について紹介します。

あとがない時に必ず助けてくれる人がいた

小説「道頓堀川」の舞台は、昭和40年代の大坂道頓堀川の川筋の街並みです。

両親を失った大学生、邦彦が喫茶店でアルバイトをしながら、町筋の歓楽街に生きる人々の、日々の生活の中にあふれる機微、喜怒哀楽を、人情味を秘めた視線で見つめた物語です。

そんな生活の中で、邦彦の喫茶店の主人である武内が語る戦後の体験談は、邦彦にとっては関心があり、とくに、終戦後の話には興味深いものでした。武内が、食べることにも困っていた17歳の娘ユキに、武内がお金を与え支援して以来、20年ぶりに出会ったときのことです。

そのユキが、焼き肉店を経営するまでに成長した姿を見、ユキの生活力の強さ、抱く大望に、武内の心が温かくなるのでした。

ここで紹介する一節は、そのユキが、武内に事業の拡大について相談している場面の会話です。

(昭和20年代中ごろ)武内は一軒の食堂で、どんぶり飯をかき込んでいる若い娘がときおり自分のほうに視線を投げかけてくるのに気づいた。

———

(竹内)「えらい久しぶりやなア、あの爺さん、どないしてるんや」と訊いた。

(ユキ)「武内さん、おいしいもん食べさしてエ」

娘はそう言って、力のない目を注いできた。

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「爺さんとは、どないなったんや」

「あの人、死んでしもうた」

娘は丼の料金をテーブルの上に置いたが、それが全財産だったらしく、

「あーあ、これで文なしや」

と武内にだけ聞こえるようにつぶやいて、—–

(20年後の昭和40年代)

ユキは短くなった煙草をもみ消し、すぐに新しい煙草に火を点けた。テーブルの上にひろげた書類やら帳簿やらを片手で閉じて片付けると、足を組み直して強く煙を吐き出した。

私は、ひょっとしたら運の強い人間かも知れへんと思うときがあるねん。もうあかん、もうあとがないというときが来ると、きまって誰か助けてくれる人があらわれるねん

陳と知り合うたのもそんなときやねん。陳は、お金の儲け方はあくどかったけど、人間は悪い人やなかった。陳が死んでからも、いざとなると助けてくれる人が出てくる。

終戦後、闇市で骨と皮になっているときも、玉田のお爺さんが助けてくれたし、お爺さんが死んでしもて、もう体を売るしかないというときに、武内さんが助けてくれはった」

「俺は、ぜんざいを食べさせて、風呂に入れてやっただけやがな」

「お金をくれたやんか。私、あのお金のことは一生忘れへんわ」

(宮本輝著 道頓堀川)

不運を意識せず逆境を生き抜く

入社してすぐにダム建設の現場に転勤になりました。数年で東京に戻ると思っていたものの、結局、その現場に10年以上滞在することになりました。

同期に入社した人たちは、ほとんどの人が2回は転勤をしており、その間いろいろな部門を経験していました。転勤できず、現場に缶詰めになっていることに不安を感じることもありました。

また、建設現場では、工事の最終段階でトラブルが続き、その対応に追われていました。

そのようなこともあり、周りの人たちから「あいつはついてないな」という評判が立っているようでした。

トラブルが続き、現場の課長として、その責任の大きさに、「自分は不幸な会社生活を歩き始めているのか」と、思うようなことがありましたが、その状況を救ってくれることがありました。

前述のユキの言葉ではありませんが、そのようなときに、必ず助けてくれる人が現れるのでした。

そのような支援を得て、現場での仕事では、技術をフル活用して立ち向かう構造物の設計、施工といった仕事が続く中で、仕事をつまらなく思うよりも、構造物の完成をぜひ見届けてみたいという気持ちが強くなりました。

運がよいと思うことで未経験の職場で達成感を得る

建設現場を離れてから数年、技術関係の職場をいくつか経験した後、新たな展開が待ち受ける職場に異動となりました。

所属する部門で、海外事業を展開することになり、そのリーダーの職に就きました。

新たな事業を立ち上げるため、まず人材を集めること、何を商売のネタにするか、市場をどこに絞るかなど戦略作りに励みました。

そのようなことを10年近く続けた後、自分にとっては想像もしなかった米国の事務所長を拝命しました。

海外事務所で会社の事業運営に関わる情報を収集し、また、米国の関係機関との関係強化を図るなど、自分には思ってもいない職場で5年間過ごしました。

その後、役員として2つの会社で経営する任務に就きました。

このように、技術屋として普通経験しないような職場に在籍し、さらには、会社を経営する立場にもなり、会社を経営、するという醍醐味も味わうことができました。

そのような経験を積んでいる中で、生き生きとその職に従事している姿を見、私を昔から知っている人たちも、そのころでは「あいつは、運がいいやつだよな」と評判するようになりました。

自分も、このように、多彩な職場を経験できたこと、そこで、思い切った仕事ができたことに、運がよい人間だったのではないかと、最近思っています。

振り返ってみると、人が不運という苦しい時代もありましたが、運、不運を意識せず、今いる職場でやりぬいていくことで、徐々に運が回ってきた気がしています

運は気合で引き寄せる

 小説「坂の上の雲」第5巻では、乃木大将が旅順攻略で苦戦する中、児玉大将が、乃木の代役として軍を引き継ぎ、指揮をとることにより、それまでに何万人もの犠牲を払っても落とすことができなかった 二〇三高地を占領することができました。

早速、児玉大将は、二〇三高地から旅順港に停泊するロシア軍の艦隊の攻撃に移りました。児玉が信頼する砲兵の権威である豊島少将は、児玉が進めようとする大掛かりな大砲による艦隊攻撃に対し、ロシア艦隊からの仕返しの恐れがあるということで、反対を唱えました。

しかし、その反対に応ずることなく、児玉はその攻撃を遂行し、ついに、旅順港内のロシアの軍艦すべてを破壊することができました。

ここで紹介する一節は、砲術の専門家が反対する方策を遂行し、成功の見通しが立ったときに、児玉大将が、児玉に随行する田中少佐に、その成功の理由を語った場面です。 

「豊島が、艦砲の仕返しを妙にこわがったが」

と、児玉はその砲撃の様子を見ながら、つぶやくようにして田中にいった。

「豊島は物を知りすぎているから、そう思ったのだろう。わしは何も知らんから、敵に撃つ余裕をあたえぬほどにこっちが撃ちつづければよかろうと思ったのだ」

それがうまくいった。

「すると、閣下のはまぐれですか」

と、田中は、児玉をからかってみた。

児玉は鼻を鳴らした。笑ったのである。が、まぐれではない、といった。

「気合のようなものだ。いくさは何分の一秒で走りすぎる機微をとらえて、こっちへ引き寄せる仕事だ。それはどうも知恵ではなく気合いだ」

(司馬遼太郎著 坂の上の雲第5巻) 

まとめ

最初から運がよいという人には、何も言うことはありませんが、今、自分は不運の真っただ中にいると思う人であるならば、是非、参考にしてください。

今、逆境にあるかもしれません、まだまだ続く可能性はあります。しかし、苦しい時に、耐え、仕事に真摯に向き合っているうちに、必ず助けてくれる人があらわれるはずです。

そして、その逆境を乗り越えたときに新たな道が開け始めるのだと思います。

運は、逆境に耐え、自分で引き寄せるものではないかと思っています。

そして、その運は、自らの気合を必要とすることもあるようです。